心に花の咲く方へ【α版】

刺激を受けた感動を言葉で

「フクシマ」へ門を開く

12/24〜12/28にゲンロンカフェとゲンロンのオフィスで開催されている『福島第一原発観光地化計画展2013「フクシマ」へ門を開く』を見てきた。



今年は東浩紀氏が中心となって作れらた書籍『福島第一原発観光地化計画』が教えてくれたものが自分の中ですごく大きかった。

まず、この書は思想書でありながら具体的提案で固められているということ。
単なる評論に終わらない『具体的』な形があること。

これが何よりも大きかった。

論ずることはとても偉大なこと。
しかし、国民総評論家と揶揄される向きもあるこの時代に評論の価値とは何なのか。
テクノロジーの発達でアマチュアでも音楽ができる時代になって、プロとは何かが問われている音楽と全く同じ問いが思想にもされているような気がしていたところに提出されたこの『福島第一原発観光地化計画』。

東氏が打ち出した形は、思想もジャーナリズムも芸術も建築も全てを表現ととらえ、その、いわば“総合芸術”をひとつの形として吐き出すーフクシマという、日本が忘れてはならない最大の課題で全ての表現を統合してみせた。未来への具体的提案という形で。

これは今まで全くなかった試みである。

フクシマ”を乗り越えるというテーマのもとにあらゆるジャンルの表現者が集まりひとつの作品を作り上げる。これって復興そのものの姿ではないか。



今回の展覧会はいわば、その『福島第一原発観光地化計画』の芸術.建築方面を抽出したもの。f:id:kicks1126:20131227163305j:plain

あの本の総合芸術に震えるほど感動した者としては是が非でも見ておきたかったのである。



あの震災から自分は何が変わったのだろう。
何が変わらなかったのだろう。

こんな問いを忘れてしまう私の世界に堕していまいか。
個は間違いなく私を巻き込みながら世界を作っている。

あの時自分の中にあった衝動。
衝動ではない持続可能な表現。

「自分は無力だ」というセリフは悟りでもなんでもなくただの逃げであるということ。


こんな言葉が蘇った。
一度は反芻したことのある言葉だ。


ここに展示されている表現はすべてあの日と未来を結ぼうという「意志」がある。
「意志」には責任が伴う。

なにしろ芸術の素養など1ミリもない私に足を運ばせるほどの情念だ。
情報は決して無味乾燥ではない。
意志は情報となりこんな男でも呼び寄せる。

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どうやら私は福島第一原発の方角から入って来たらしい。その光の先にあるもの。

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福島ゲートヴィレッジの模型。
藤村龍至氏の完成形に至る原案もとても興味深かった。あの模型には各メンバーの福島の未来の構想が詰まっているのだと分かる熱い鉛筆描きの原案だった。チームで作ってるんだなと。

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この梅沢和木氏の絵は『福島第一原発観光地化計画』の表紙のもの。
福島ゲートヴィレッジに象徴として置かれる「ツナミの塔」。
震災ガレキを使ってという着想と、バケモノにもゆるキャラにも見える姿。
まるでゴジラ。善とか悪とか全て飲み込んで魅力を放つゴジラにその姿が被った。


第二会場は撮影禁止。
そもそも入場者が撮影されているというシチュエーションが作品という空間。

そこでの黒瀬陽平氏の「カオスラウンジ宣言」には感情を揺さぶられた。
テクノロジーが進むであろう2036年でのあの「宣言」。
あのメタファーには痺れた。
時代が変化しても変わらないもの。
それをあの「形態」で表現したのか。
もう一度逢いたい作品。



結局何が凄いって、この表現者たちはみんな自分と同世代であったり、年下ばかりだということ。
自由に表現しているようで、そこには「2036年の福島」という責任と連帯が確実にある。
自由と責任が並存する空間。

このインパクトは今後の自分を左右するものになるだろう。
自分のステージは芸術にはなり得ないが、この空間は表現してみたい。
それが社会的責任を背負える空間を。


2013.12.27