心に花の咲く方へ【α版】

刺激を受けた感動を言葉で

「福島第一原発「観光」記」から見えた景色

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つくづく反省する毎日である。
鋭い物言いをすれば誰かの中にインパクトを残せる。

これは技術論で小林よしのりを読み始めてから知ったことである。

これが世を生きてゆく技術である。

しかし最近、いろんなことを知れば知るほど、その技術論自体に疑問を持ち始めているのだ。
もちろん前提として「知る」という営みを繰り返してきての「技術論」であるのは論を待たない。
しかしそれでもやはり言論における「技術論」でやり過ごしてきたのではないかと自己反省を繰り返すのである。


東浩紀氏の「福島第一原発「観光」記」を読んだ。
昨年東氏がぶち上げた福島第一原発観光地化計画。様々な反発があるんだという。
「観光」という言葉に軽薄さがあるのだとか。
東氏の言葉からはそんな軽薄さや浅薄さは見受けられない。
私には東氏の熱さだけが伝わる。

結局知らないだけなのだ。
読みもせずに毒を吐いているに過ぎない。

この「観光記」は福島第一原発観光地化計画に携わる委員たち13名が福島第一原発と第二原発を取材した模様の紀行文である。

内容はとても刺激的。
端的に言えば、「今すぐにでも原発を見学することは可能」。
それを示している紀行文だ。

見学中に浴びる蓄積放射線量は、東京ーニューヨークを飛行機で横断する際に被曝する放射線量よりも低い。この例えはあまりに衝撃的である。

要は知らないから意識の中で作っていたイメージがあまりに分かりやすいファクトでぶっ壊されたのだ。

東氏の紀行文を読んでいて強く思ったことがある。
我々はあまりに勝手に線を引き過ぎているのではないか。

右翼と左翼、脱原発原発推進、上司と部下、男と女。。。

それぞれの景色が違っているのはある意味当然。
しかし、そのポジションから一歩も出ることなく踏ん反り返っているだけではないのか。
「観光」という言葉に対する反発ひとつとってもそうだ。ただ、言葉のイメージだけでけしからんと言っている。

知れば変わる。
知れば交わることもできる。
そうすれば可能性も生まれる。

東氏は紀行文の最後に、この紀行文はジャーナリズムのプロでもない素人が書いた文章だと「あえて」表明して、その「無責任」さや「軽薄さ」が乗り越えるものに希望を見出すと述べている。

その通りだと思うのだ。
今は誰もが勝手に自分のポジションを決めてそこから見える景色からしか判断を下さない。
そも結果生まれているのが“分断”である。

左翼と右翼の議論が噛み合うことはないし、それは我々の日常でもそうだ。

それを乗り越えるいい例が「観光」だと東氏は言って見せる。
そう、軽薄だと批判されるその「軽薄さ」こそが我々の意識が勝手に引いている線を乗り越えるのかもしれない。

線を乗り越えろ!と言うのは簡単だ。
しかし、そこへ誘うものを考えなえなければならない。

そのヒントが描かれていた。
分断を乗り越えるには線を越えて「知る」ことを繰り返すしかない。
それを自分自身、積み重ねてゆくしかない。