心に花の咲く方へ【α版】

刺激を受けた感動を言葉で

漂白を笑え!〜『地獄でなぜ悪い』鑑賞

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先日、2度目の『地獄でなぜ悪い』を見た。

金木犀の匂いがすると秋がやって来たと思うように。
雨がアスファルトを濡らす香りがすると梅雨がやって来たと感じるように。

名作を観ると名作に出会った匂いがするものだ。

誰にも“名作センサー”はあるに違いないが、私の場合はどうか。
心が揺れるという表現が1番近いか。

心が揺れて映画館を出る時にはニヤニヤしているから、傍目には変態が建物から出てきた扱いだろう。

周囲の目を忘れさせてくれるような作品が名作といういうことだろうか。


地獄でなぜ悪い』はそんな作品だった。

日本の任侠映画がメジャーでなくなったのはいつからか。

私は任侠映画が日本映画の屋台骨を支えていた時代を知らない。しかし、『仁義なき戦い』シリーズを始め、高倉健菅原文太などがヤクザを演じてきて一時代を築いた歴史は知っている。


地獄でなぜ悪い』はその時代へのオマージュも多分に含まれている。

現実の世界はヤクザは排除すべき対象として忌み嫌われている。法律も条例もヤクザは根絶すべきで、“クリーン”な世の中作りが志向されている。そんな影響もあって任侠映画が大手を振って世間様を闊歩することができなくなったのではないか。

では任侠映画全盛の頃はそうではなかったのか?あのころはヤクザは庶民から歓迎されるような対象だったのだろうか。


決してそうではあるまい。

犯罪手を染める組織を歓迎する社会などあるわけがないのだから。

では、今と一体何が違うのか。

時代は変わると言うが、何が変わったのか。


社会がプロセスを見なくなったのである。


かつてもヤクザは排除されるべき対象だった。しかし、その世界で何が行われているのかは知りたい。自分の常識では理解できない世界でもある“物語”を見たい覗きたい。そんな欲望があったのではないか。そしてそれが時には、憧れにすら転化するような。。


そこで描かれている模様には憧れなど抱かないだろう。なにしろそこはドンパチの現場だ。といいながら、チャンバラとかドンパチとかに憧れを抱く心情が自分の中に明らかにあることを吐露しておくが。


しかし、人々が感動するのはヤクザ映画を任侠映画と呼ぶことからも、この世界の筋を通すことへの純粋性に何かを見ているからだろう。


建前では嫌いだと言いながら、それでもその世界を覗いて、そこにある本質には憧れを抱く。


こんな複雑なことを一昔前には市井の人たちが普通にやっていたのである。

これを清濁併せ呑むという。



共生というキーワードが重宝されてどれだけ時代が進んだだろうか。

共生といいながら世間の漂白は進む。


不正は許さない。

特権は許さない。


ピュアな社会が近づきつつある。

そんなPTA礼賛な社会に豪快に笑いながら鉄槌を下す。

地獄でなぜ悪い』はそんな映画だ。